富山県砺波市・庄川地区とその周辺にあるおいしいものを、全国にお届けしているオンラインショップ「庄川温泉郷商店」。全国のみなさんに、もっとその土地にある物語を知ってほしくて、この「さとの暮らし」は生まれました。庄川の文化や暮らしにまつわる物語を、月に1回発信していきます。
今回は、今も昔も美しい姿で観光客を楽しませる「夜高行燈」が誕生したストーリーをご紹介します。
田んぼの灯が、未来を照らしていた
「行燈(あんどん)」と聞いても、わからない人が多いかもしれません。江戸時代の宿場案内や神社への参道灯篭などで、夜道での行き先を示す、案内表示灯のことをいいます。
明治時代頃、砺波地区の農家では、田植え時期に田んぼの水取りであぜ道を見回るために、提灯やロウソクを使っていました。それが後に、風を防ぐ行燈に変わったと伝えられています。
田植えが終了する6月10日前後(砺波地区の方言で「やすんごと」)には、その年の豊年万作を願い、表に武者絵を、裏に豊年万作と描いた行燈で、あぜ道を「豊年じゃ 万作じゃ」と歌いながらまわったそうです。その田植えの休憩時には、豆腐にゆず味噌をつけた田楽(でんがく)で祝いました。この行燈や田楽が豆腐に似ていることから、通称「トッぺ行燈」と呼ばれるようになりました。この風習が「田祭り」であり、今日にも受け継がれている「夜高行燈」の前身です。
時代を超え、美しさを引き継ぐ夜高行燈へ
観光客を楽しませるための「夜高行燈」に変化したのは、昭和の初期頃。小牧ダムの建設時期に多くの人が庄川に住み着き、それに比例して増え始めた宿泊旅館に、観光客が訪れようになったことがきっかけです。戦争中は中断しましたが、昭和23年頃に再び復活し、街も活気づきました。
昭和28年6月には庄川町合併を祝い、第1回「庄川町観光祭」として、花火や灯篭流しなどとともに、華やかな光の祭典として開催されました。行燈の形や色彩も変化し、年々美しく飾られていきました。しかし、さまざまな要因から、同37年にまた途絶えることになります。
2度目の復活は、昭和47年。庄川町青年団の後押しによって、金屋の清水町内が街練りを行ったのが、今日まで続いています。最盛期は昭和55年〜60年頃。約20町内・大中小36基の行燈が練り歩き、それはもう見事な美しさだったそうです。
現在も町内合同製作や担ぎ手の協力によって、約15町内・大中小20基の行燈で、伝統を受け継いでいます。最盛期のような面影はありませんが、「観光客を喜ばせたい」との心意気は、昔から変わっていません。観光の町・庄川としての誇りを持ち、若者の活気を生かしながら、夜高行燈の形や色彩の美しさに挑戦し続けています。
■この話を教えてくれた人
白山久一さん
昭和50年から約10年にわたって、夜高保存会の事務局長を務めた白山さん。「祭りの灯を消さないよう、魅力を伝えていきたいです」。
■動画で見る夜高行燈
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