2021.9.6

かつての未開の地には、今も開拓精神があふれています。

 富山県砺波市・庄川地区とその周辺にあるおいしいものを、全国にお届けしているオンラインショップ「庄川温泉郷商店」。全国のみなさんに、もっとその土地にある物語を知ってほしくて、この「さとの暮らし」は生まれました。庄川の文化や暮らしにまつわる物語を、月に1回発信していきます。

 今回は、砺波平野を開拓した奈良時代の豪族、利波臣志留志(となみのおみしるし)をご紹介します。

原野を切り拓き、米を作り、東大寺へ

 奈良時代の743年、自分で開墾した土地は永遠に自分のものになるという「墾田永年私財法(こんでんえいねんしざいのほう)」が制定され、大開拓時代の幕開けとなりました。今の埴生八幡宮(小矢部市)から安居寺(福野)辺りに住んでいたベンチャー精神にあふれた人たちが、開拓を目指して庄東地区にやってきたのです。

 

 その中の利波一族の一人、利波臣志留志は、砺波平野の東側(現在の庄東地区一帯)で開墾を始めました。通常は、財を成して豊かに暮らすことを目的に開墾にあたる人が多いのではないでしょうか。ところが、利波臣志留志が作ったのは、水田でした。749年には、莫大な量の米を収穫し、奈良の東大寺に300トンを送ったといわれています。

 当時は、ちょうど令和の今と同じように疫病が流行っていました。国家的な財政難に陥っていましたが、聖武天皇は国家安寧のために大仏を作ろうと、寄付を募っていたのです。彼は、すかさずそれに乗ったわけですね。2,000人もの豪族がいろいろなものを寄付する中、最も価値のあるものを送ったといわれています。そう、彼がいなければ、東大寺の大仏は生まれなかったのです。

家柄を飛び越えた、古代のシンデレラボーイ

 利波臣志留志のバイタリティあふれる行動に反応したのが、朝廷でした。「たくさん米がとれるところに所有地(荘園)を増やしたい」と、優秀な官僚・大伴家持を越中へ派遣。越中の米どころの視察中に歌ったのが、かの万葉集です。家持が帰ってから、利波臣志留志は自ら土地を寄付。朝廷の荘園となり、「伊加流伎野(いかるぎの)荘」という名が付けられました。

 こうした功績から、彼は民間から官僚へ引き抜かれ、越中員外介という役職に就任。今でいう市長の家系から、富山県副知事になったわけです。当時は能力主義ではなく、家柄が重視されていたため、その垣根を飛び越えたのは異例の出世といえるでしょう。最終的には伊賀守、今でいう三重県知事に就任しました。

 東大寺の「お水取り」という行事では、過去帳の読み上げといって、これまでに東大寺で活躍した人の名前が順に読み上げられます。その中で民間人の1番最初に出てくるのが、利波臣志留志。749年の出来事が、令和の今もずっと。地元民として誇らしい話です。砺波平野に今も開拓精神に満ちた人が多いのは、利波臣志留志の意思が知らず知らずのうちに受け継がれているのかもしれません。

砺波平野独特の散居景観。開拓した先人たちの、暮らしの知恵と努力がつくり出した風景です。

■この話を教えてくれた人

砺波市教育委員会 学芸員 野原大輔さん


メールマガジンでは、特集「さとの暮らし」の最新記事のほか、オンラインショップ「庄川温泉郷商店」の期間限定・おすすめ商品の情報をお届けいたします。配信をご希望の方は、登録フォーム(無料)よりお申し込みください。